電車を降りて、駅から自宅までの道程をは一人歩いていた
    9時過ぎの暗い通りとは言え、に取っては通いなれた道
    何の心配も無く、雨のアスファルトをまっすぐ自宅へと向っていた




    の住むマンションに近付くにつれて、路地は少しづつ細くなり、人通りもまばらになる
    カコッ、カコッというのミュールの音は、雨に遮られて本人の耳元程度までにしか届かない
    流石に心もとなくなってきたのか、感度を上げたの耳に、ごく微かにだがひたひたという足音が聞こえてきた




    気のせいかもしれない
    …勿論、唯の通りすがりの人間という可能性のほうが高いだろう




    だが、角を曲がれど一向に無くならないどころか強くなるようなその気配に、は徐々に空恐ろしい気分に襲われて始めていた

    道は、じきに街灯が届かない路地に踏み込もうとしている




    振り返りたい…振り返って後ろを確認してみたい




    は恐ろしい欲求に駆られていた
    …しかし、その欲求は実現した途端、より大きな恐怖に覆い尽くされる可能性が極めて高いこともまたよく分かっていた








    後ろの気配は消えぬまま、とうとう街灯の届かない路地に入り、しばらく歩いたところでのマンションに到着した




    …早く、家に入りたい




    郵便受けもろくに確認せず、はそのままエレベーターに乗って自分の部屋のあるフロアまで急いだ




    ポーン




    エレベーターのドアが開き、はドア前の階段を息を殺して確認した




    …どうやら、追って来てはいない
    私の気のせいだったと、そう思いたい




    ふー、と短く息を吐き、はフロアの廊下を足早に自分の部屋のドアへと進んだ
    角部屋であるの部屋のドアは、フロアの一番奥に位置する
    いつもなら大した距離ではないこの廊下も、今日ばかりは莫大に長いものに思えた







    ドアの前に辿り着いたは、もう一度廊下の周りを確認して、鍵を開けると素早く中に入った
    後手にドアを閉め、間髪を入れずに内側から鍵を掛け、ドアチェーンも掛けた

    …これでもう安心だ


    「はあ…何だったのよ、一体…。」


    は溜息を吐いた
    ミュールを脱いで、真っ暗な玄関の電気のスイッチを入れた瞬間、は更なる恐怖に身を竦めた





    …目の前に、見知らぬ男が立っていた
    おそらく、それは先ほどまで自分を追っていた男に違いない


    「ひ……っ。」


    の叫びは、最早声にならない


    「おっと、声を出すんじゃない。」


    ナイフを持った男の腕が、の視界の端に入った
    そのまま、男はじりじりとに近寄って来る




 
    な…なんでこの男は私の部屋にいるの!?
    一体、どういうこと…?





    襲い来る恐怖の中で、は現状を把握しようと試みた
    …しかし、答えを出すほどの余裕が有る筈も無く、その試みは無駄な足掻きに終った





    と、とにかくここから離れなければ…!





    次の瞬間、はドアの鍵を開けた
    バンっ!
    勢いよく大きく開いた筈のドアは…僅かの隙間を作っただけだった

    先程、念のために掛けたドアチェーンがドアの開放を阻んでいたのだ
    ドアチェーンを外すためには、もう一度ドア自体を閉じねばならない
    外に出たいという願望と、もう一度ドアを閉じねばならない現状の間で、にジレンマが生じた
    その一瞬を突いて、男は静かに、だが力強くドアを内側に引き、再び鍵を掛けた

    一縷の望みを絶たれて、はそのまま玄関にへたりこむ

    男はその様子を満足げに見下ろしながら、クク、と喉の奥で笑った


    「逃げてもらっちゃ、困るねぇ、お嬢ちゃん。…さあ、来てもらおうか。」


    男は、の細い腕を掴んでぐいっと引き起こした


    「な…何を…。」

 
    咄嗟に口を開こうとしたの頬に、男はナイフの刃を突き当てた
    金属特有の冷たい感触が、の頬から身体全体に拡がる


    「…そんなこたあ、どうだっていいじゃね―か。知らないほうが幸せなことも世の中には存在するってことよ。」


    男に促され、半ば引き摺られるようにしては部屋の奥へと連れて行かれた
    ワンルームの部屋には、簡単な調度と…後はベッドがあるだけだ
    男が何をしようとしているのか、には分かりすぎるほど理解できた
    じわじわと襲い来る危機感に、の体は硬直し始めていた
 


    「そう怖がる事は無い…大人しくしてりゃあ、痛い思いはさせねぇよ。」



    男は、再びクク、と喉を鳴らすと、怯え切って硬くなったの身体を強引にベッドに押し付けた
    ナイフを握っていない方の男の手が、のスーツのボタンに掛かる




    …もう、駄目かも…
    誰か、助けて…!




    ビッ、っと音を立ててスーツの前の合わせが外された瞬間、目を閉じていたの耳に大きな音が響いた



    ガシャアアアァァァァン!



    勢い良く割れたガラスの破壊音に一瞬怯んだ男の手元からナイフが落ちる
    次の瞬間…を拘束していたはずの男はその両腕を後手に拘束され、首を軽く絞められていた

    が恐る恐る目を開くと、男の後ろにはあの夜の男が立っていた





    「あ…貴方…!」


    「ナイフを…早く!」




    金髪の男が、短く促す
    ははっとして、すぐに足元に転がるナイフを遠くへと遣った

    侵入者の男が、金髪の男の腕の中で必至にもがいていた


    「…貴様、あの男に頼まれたんだな。…言え。言わんとどうなるかぐらいは自分で判っているだろう。」


    低い言葉を発するのと同時に、金髪の男の腕に一層の力が篭る
    それは、単なる脅しのためなのか、怒りのためなのかは判らない
    だが、侵入者の男の身体は、徐々にみしみしと音を立てて軋み始めていた
    ぎゃっ、と短く叫んだ後、男はひゅう、ひゅうと苦しそうに呼吸をした


    「そ…そう、だ。俺は…あの男に頼まれただけだ。」


    男が苦悶の中でようやく口を開いた
    金髪の男は、男の言葉を聞いて少しだけ力を緩めてやった…勿論、話し易くなるレベルだけだが


    「ほう、やはりな。…で、あいつは何と頼んだんだ、お前に。」

    「あ…あいつは、『俺の恋人を襲って欲しい。そして襲った証拠を持って来るように。そうすれば婚約を破談に出来るから』と言ったんだ。」






    ガタン






    男の証言を耳にして、は床に崩れ落ちた


    「あ…あいつって…、レイジが…?レイジなの?」

    「そ…うだ。あの男は、自分の会社の上司の娘と縁談が持ち上がったんでお前が邪魔になったんだ。……己の出世のためだけにな。
     だから…手っ取り早くお前との婚約を解消するために、俺にお前を襲うように示唆した。証拠に…そこの婚約指輪を持ってくるようにと言ってな。
     へっ…とんだ男だ。お前も気の毒にな。」


    一度口を割ったためか、男は堰を切ったようにぺらぺらとしゃべり始めた
    その内容を聞けば聞くほど、は自分の目の前から色が無くなる様な脱力感に襲われていた


    「う…、嘘でしょ。レイジが…レイジがそんなことする筈はないわ。」


    蒼白と暗黒がマーブル模様を描いて広がる意識の中で、は自分に言い聞かせるように男に問いかけた


    「…お嬢ちゃん、どうして俺がお前の部屋の鍵を持っていたのか、考えれば判るだろう?」


    金髪の男に身体を羽交い絞められながらも、侵入者の男は不敵に低く笑った
    男の笑いに、の表情から更に色が失われて行く
    だが、次の瞬間、男はその場に音も無く崩れ落ちた
    …金髪の男が、聞くに堪えかねて男の鳩尾に一撃を見舞ったからだった









    「レ…レイジが…。嘘よ、嘘に決まってるわ、そんなの…!」


    は、文字通り頭を抱え込んで冷たい床にうずくまった


    「…嘘ではない。あの男…そう、レイジとか言ったかな、あいつは目先の利益に捕われて、、君を厄介払いしようとしたのだ。
     …まず、俺を使って君の身辺調査をさせてな。」

    「な…!」

    「勿論、いくら叩いた処で君から落ちる埃は一つも無い。俺の報告を受けたレイジは、それを聞いて妙な顔をしていた。
     …それはそうだろうな、藁にでも縋りたいほどの焦るべき事態だったのだろうから。判った、と俺に下がるように言ったその時、俺は思ったんだ。
     …この男は、まだ何かを企んでいる、とな。」

    「……。」

    「そして再び、『もう一度、徹底的にの身辺調査をするように。』とのオファーだ。…しかも期限付きで。…これが罠でないわけが無いだろう。
     もしや、と思って君の身辺調査をするフリをしてヤツの出方を探っていたんだ。…あの男も、ここまで強引な手段を使うとはな。」


    男の言葉を聞いて、は心当たりを思い出して頭を上げた


    「…じゃあ、あの雨の夜、私を…?」

    「…ああ。職業柄、本当は調査対象者に存在を気取られてはいけないのだがな。」


    金髪の男は、の言葉に少し俯くように微笑した
    …もしかすると、彼なりに照れているのかもしれない





    「俺の名は、ラダマンティス。…所謂私立探偵だ。いくら仕事のこととは言え、君には随分辛い思いをさせてしまったかもしれない、。」


    に対するせめてもの労わりの言葉であったのかもしれないが、ラダマンティスの口から、「辛い思い」という単語が紡ぎ出された途端、
    の中でそれまで張り詰めていたものが一斉に弾け出した

    の目に、大粒の涙が零れ出す

    それは、見知らぬ男に襲われそうになったという恐怖感からなのか、それとも恋人に裏切られたというショックによるものなのか、またはその双方であるのか
    ラダマンティスはのその複雑な胸中を察するよりも、唯、彼女の今の涙を受け止めて遣りたいと思った

    ラダマンティスは、声を上げて泣き始めたを自らの腕の内にそっと包み込んだ
    ぎこちないその仕種は、却ってに安心感を与え、それによって一層彼女の泣き声を大きくした
    ラダマンティスは終始何も語らず、唯の身体を支えていた





    「怖かった…。」


    嗚咽と共に、やがての口から小さく呟きが零れた





    「私…怖かったの。もう駄目だって…。」

    「……。」


    自分の耳元で囁かれるラダマンティスの低い声に、安心したようには顔を僅かに上げた
    その表情は、まだ完全に恐怖を払拭しきれてはいない


    「貴方が来てくれて良かった、ラダマンティス。」


    の細い両腕が、ラダマンティスの背中に回される


    「貴方で良かった……。」

    「…。」


    自分の背に回されたの腕に、力が篭ったのをラダマンティスは感じ取っていた


    「…本当はね、最近ちょっとおかしいなと思っていたの、レイジのこと。
     …メールを出しても返事が返ってこない事があったり、突然メールをくれても、すごくそっけない内容だったり。
     …電話も出てくれないことが多くて。前はこんなこと無かったから、きっと忙しいんだってムリに思い込んでたの。
     …でもまさか、まさかレイジがこんなこと…!」

    「言うな、。…それを言ってはいけない。」

    「だって…だって、こんなこと……っ!!」



    恐怖と悲しみに混乱して堰を切ったように叫びだしたの唇を、ラダマンティスの唇が塞いでいた
    の肩が、小刻みに震える

 











    途方も無く長い時間のようでほんの一瞬の時間の後、ラダマンティスは唇を離した
    の目元からは、絶え間なく涙が流れ続けている





    「…。」





    ラダマンティスは、の名を低く呼ぶと、自らの指先で彼女の目元を優しく拭った
    そして、そのヘイゼルの瞳での潤む瞳を余す所無く見詰めた





    「ラダマンティス…。」





    の視界の全てが、ラダマンティスで満たされる

    ラダマンティスの強く…そして温かな視線が…今、自分だけに向けられている
    あの夜に、もしも、と仮定した事が、今自分の目の前で現実の事となっていた


    「…俺はあの夜、君に傘を差し出した。
     …君に…調査対象者に接触することは、プロとして失格の烙印を押されるも同然なのだ。だが、俺はそうせずにはいられなかった。
     …そして、それはきっと君の身の上に同情してのことだと思っていた。
     だが、今夜君を助けて初めて判った。俺は…あの日、雨の中でずっと立っていた君に惹かれていたのだと。
     あの男に君が襲われそうになって、そんなことはさせない、と猛烈に怒りを感じた。…君を守りたいと、心底思った。
     君の身に恐怖が襲い掛かることが、自分の身が危機に曝されることとは比べようも無く恐ろしかった…。」


    自分を抱きしめるラダマンティスの腕が震えるのを、は感じた


    「…、どうかこの俺を許してくれ。君に…こんな思いをさせてしまった俺を。」

    「ラダマンティス。」


    の声に、ラダマンティスは俯きかけた顔を上げた
    …ラダマンティスの目に飛び込んできたのは、笑顔を見せる愛しい人の姿だった


    「ラダマンティス、ありがとう。…来てくれたのが貴方で、本当に良かった。…私、あの夜に貴方に出会ってから、貴方の事が頭からずっと離れなかった。
     …貴方の瞳が、とても不思議だったから。でもそれは、貴方の精一杯の気持ちだったのね。…ありがとう、私…。」

    「…。」


    呟く言葉と同時に、ラダマンティスの手がの後ろ髪に添えられた



    「二度と、俺の前からいなくならないでくれ…ずっと守り続けるから…。」

    「ラダ…。」



    二人の距離が再び縮まり、重なろうとした瞬間、二人の側で呻き声が聞こえた


    「…ううっ……。」


    侵入者の男が、意識を取り戻しかけたのだった



    「……!!」



    ラダマンティスの肘鉄で、男はあっけなく再び意識を失った



    「…ふ…ふふ。」

    「…まったく、本当に無粋な男だな。いっそ殺してしまいたいぐらいだ。」



    思わずから零れた笑いに、ラダマンティスは少々バツが悪そうに呟いた
    少しばかり残念そうなその表情を、は誰よりも愛しく思った


    「…さて、それではこの男を然るべき筋にでも届けるか。」

    「ふふ…そうね。じゃあ行きましょうか、ラダマンティス。」


    男をひょいと担ぎ上げて、ラダマンティスは片手を差し出した
    は、その手をしっかりと握り締めて立ち上がった












    …外は、今日も雨

    梅雨のようにしのつく雨の中を、2人(+α)の影は消えて行った






<管理人よりコメント>
ようやく完成いたしました〜。(汗)「2525」キリリク、ラダマンティス夢です。
リクエストを頂きました、サスキア様、ありがとうございます!…こんなんでよろしかったでしょうか?(笑)
「日常の聖闘士(ラダは聖闘士じゃないですね。汗)系の夢で」というリクでしたので、ちょっとサスペンス気味な日常(?)夢設定にしてみました。
ラダにはトレンチコートを着て欲しい管理人でございます。(^^;)…しかし、日本でラダが探偵って、目立つ事この上なくて駄目かも…。(汗)
仕事もこなせるけど、見るべきものはきちんと見て判断する熱い男、ラダマンティス。…って駄目ですかねぇ?←誰に聞いているのでしょう?
今後も頑張って執筆させて頂きますので、どうぞお見捨てなきよう。サスキア様、リクありがとうございました〜!m(_ _)m





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